2007年2月24日土曜日

【1日目】広尾ー北見

路線図:北海道
【1日目】広尾ー北見 2004.09.19(日)

広尾(旧広尾線)(バス)帯広(根室本線)富良野(富良野線)旭川(石北本線)北見

「最長片道切符の旅」はここ、広尾線広尾から始まる。広尾線は昭和62年(1987)に廃止され、今は駅舎だけが残っている。駅の裏は閑散としていて昔ヤードだったところは鉄道公園とパークゴルフ場になっていた。旧広尾駅はバスステーションになっていて「さようなら広尾線」展示コーナーになっている。
雨、気温15℃。広尾から旧広尾線の跡を辿って帯広までバスで、¥1830。0623発の始発は私一人だけだった。
バスは雨の中、真っ直ぐな道を単調に走り続ける。バスの運転手「ま、お客さんひとりしか乗っとらんですから」。ぼちぼち話をする。旧広尾線の跡があると丁寧に教えてくれた。旧忠類駅では時間調整のため3分間停車して、写真を撮りに行かせてくれた。忠類駅は昔のまま、ぽちんとレールと貨車ごと残っていた。妙に懐かしい。昔の駅は今ではバスターミナルになったり道の駅になったりしている。木々の間に「幸福」駅のディーゼル2両がちらっと見えた。
町や林の中を線路の跡が一直線に抜けている。ちょっと胸がきゅんとする。「さよなら広尾線」などとセンチなことを言うつもりはない。馬車が鉄道に、鉄道がバスに、バスが自家用車に。それは鉄道が経済的にマーケットから見放され、経営が成り立たなくなったということである。鉄道を駆逐したバスも今、存亡の危機を迎えている、と北海道バス連合のチラシが訴えている。広尾の町の人は誰もが誇らしげに札幌への急行バスのことを話していた。今でも鉄道とバスと自動車は移動の主権を争っている。

広尾線廃線の危機のとき、「愛国から幸福」行きの切符が爆発的に売れたことがある。結婚式の引き出物として使われたのだった。鉄道は最初、石炭や農作物を運ぶ「運搬」としてスタートし、その後人を運ぶという「サービス」業になり、そして何も運ばない「愛国から幸福」という情報だけを売る「情報」業になった。それは80年代のマーケティングの変化をそのまま体現しているようだ。「製品」でもなく「サービス」でもなく「情報」が売れる時代になったのだ。そしてそれが鉄道・広尾線の最後でもあった。

バスは雨の中を日曜のクラブ活動に登校する高校生をぽちぽち拾いながら走る。バスの行き先案内の「聞きまつがい」が愉快だ。「野塚御殿」は「野塚五線」であり、「更別南十字星」は「更別南十二線」であった。看板「愛国メイクイーン祭9月23日」「FM JAGA 77.8M」。畑はジャガイモ、豆、ビート(グラニュー糖が出来るんだそうだ)。「新生」「大樹」「幸福」「大正」「愛国」を過ぎて帯広市街に入る。
0830帯広駅着。

朝食「豚にぎり」¥400。0920帯広発根室本線快速「狩勝」。1両編成ワンマンカー。ほぼ満席。7割は鉄分多し。シルバーエイジも多い。車両は「キハ40」。窓の位置が高くてシートが固い。前席カップルの女の子は乗ってからずっとウォークマン、ケータイメール、ガイドブックチェック、文庫本とメディアリテラシー高し。男はずっと馬鹿面でGBA。

鉄道の席は「進行方向前向きで左側」をもって最良とする。景色がよく見えるのと左側の鉄道標識、里程、トンネル・鉄橋・河川名がよく読めるからである。今回もしっかり最善の席を確保した。



芽室(めむろ)で雲が晴れて山々が姿を現す。新得(しんとく)から大きなループで狩勝峠へ。ダイナミックな鉄道風景。この風景は25年前と変わらない。左側に「新狩勝隧道」の標識が見えた、と思ったらそのまま長いトンネルへ。トンネルを抜けると落合、石狩に入る。

富良野の手前、布部(ぬのべ)から山の奥に入っていく暗くて細い一本道が見えた。ここを山の中に入っていくと麓郷(ろくごう)、「北の国から」のロケ地である。

富良野駅では反対側ホームにSL「ノロッコ号」がC11に牽引されて入ってきた。C11は子どもの頃からいちばん好きだった蒸気機関車なので幼友達に出会ったように嬉しい。ノロッコ号には家族連れや鉄道マニアが半々。これはもう立派な産業だな。
晴れてきた。汗ばむほどの陽気になってきた。1145富良野線で旭川まで。車内が蒸し暑くなってきて、美馬牛(びばうし)(なんと美しい駅の名前だろう)で冷房が入った。しかし、踏切で待っている自転車の少女はフリースを着ている。
旭川1255着。次の列車まで44分の待ち合わせ時間がある。この間を利用して旭川市内にラーメンを食べに行くべきか、駅舎内の駅弁ですますか、それが問題だ。駅近くにラーメン屋があるのを地図で確認、ラーメンに賭ける。らうめん「青葉」に大急ぎで駆けつけると10人ほどの列。しまったと思ったがしようがない。並ぶこと10分、意外に早く順番が回ってきた。塩ラーメン700円。ほっこりとしたいい味だった。大汗を掻いて駅に戻ると出発1分前。やれやれ。

伊香牛(いかうし)で今年初めての赤蜻蛉を見る。中愛別(なかあいべつ)で私服の中学生の女の子三人が黙って降りていった。周りは畑ばかりで家らしいものは遠くに見えるだけだった。
  上川盆地を東に進むに連れて水田が雪景色に変わってきた。
  このあたりは北海道第一の米作地帯で、それだけに減反の
  効果が大きいのか休耕地が目立つ。今年の収穫が終わった
  ところは雪面に切株が整然と並んでいるが、うぶ毛のよう
  な雑草が一面に生えた休耕地は餅に青カビが生えたように
  なっている。二割ぐらいが休耕地のようであった。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三)

昨夜の居酒屋「みはる」の女将に言わせると「旭川米は今一番おいしいんでないの。去年はよくなかったけど、今年は暑かったからいいんでないかい」。25年前休耕田だったところは、今は自主流通米になって出回っているのだろう。

上川に1453着。ここで57分の待ち合わせ。上川駅直前、汽車の中から「虹の湯」というのが見えた。駅の売店のおばさんに聞いてみたらすぐ電話してくれた。残念ながら16時からだという。駅前のタクシーにも近場の温泉を聞いてくれたけど適当なところはなし。1時間では層雲峡までは行って帰ってこられないしな。ここで過ごすことになった。じゃ、コーヒーでも飲むかと町に出たけど店は全て閉まっていた。(というか店がない)一軒だけ開いていたケーキ屋でケーキを買って駅のおばさんと食べた。


駅前にバスが一台止まるとジャージー姿の高校生がどっと降りてきた。駅のおばさん「あ、もう帰ってきたんだ。ウチの孫も帰ってきたな。二、三日静かでよかったんだけどな」

上川から特別快速「きたみ」。キハ52系。窓が木枠で二重になっていてしかも開く。列車は留辺蘂川に沿って山を登る。消えかかった駅標が「かみこし」(上越)と読める信号所で、上り線待ち合わせ4分停車。「石狩北見国境標高六三四米」とある。

列車は北見峠へ。ちらほらと紅葉。すぐに北見トンネルへ。夕焼けで山が赤い。遠軽駅の神社では秋祭りの最中であった。ここから進行方向が変わる。「宮脇版」では第一日目はこの遠軽に泊まるのだが、私はもう少し先の北見まで行く。北見まで行かないと翌朝のちほく高原鉄道(池北線)始発に乗れないのだ。
北見富士に夕日が落ちる。窓を開けるとおが屑の匂いが入ってきた。
生田原(いくたはる)。ここはNHKTV版「最長片道」の二日目で放送された駅。ようやくここでクロスした。この先何回行き交うのだろうか。相内(あいのない)という駅があった。
北見駅前の「東横イン」に泊まる。ここも携帯のネットで予約。夕食は隣のミスドでドーナッツ。ホテルのコインランドリーで三日分の洗濯。隣で洗濯しているスーパーセールスマンはすごかった。着ているものを背広、シャツ、ズボン、パンツ、靴下、ネクタイまで全部洗濯機に入れて、自分はホテルの寝間着とスリッパで待っているのである。強者がいたものだ。

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「乗り鉄」です。始発からずっと乗りっぱなし。泊まりはたいてい駅前のビジネスホテル。泊まったところでおいしいものを見つけるのが楽しみ。 路地裏旅行社 http://www.kanshin.jp/rojiura/