2007年2月26日月曜日

【3日目】標茶ー興部

【3日目】標茶ー興部(2004年9月21日)

(標茶しべちゃ 0611−0646 釧路湿原 0738−0758 釧路 0905−)0957 標茶 0957−1143 止別やむべつ 1257−1326 網走 1340−1600 中湧別 1604−1700 紋別 1710−1755 興部おこっぺ


本日は釧網本線を網走まで、そこから廃線になった湧網線跡をバスで興部(おこっぺ)まで行く。ただし、その前に「最長片道」から離れて、
途中釧路湿原まで出てから釧路に立ち寄って行く。
標津線の起点標(標茶駅ホーム)

標茶発0611始発釧路行きに乗る。このために昨夜駅前の旅館に泊まったのだ。0646釧路湿原臨時駅に降りたのは私一人だけだった。カタンカタンと一輛の列車が 行ってしまうとあたりは全くの静寂となった。細岡展望台まで歩く。これだけの広さの大自然がそのまま残っていることに感謝。ここで一時間ぼーっとしてい た。


0738釧路湿原発釧路行きの列車は通学の学生で満杯だった。釧路駅で時間待ちの間、駅構内のクイックマッサージ。背中と尻を集中的にやってもらう。30 分1500円は安い。今日の朝食は「十勝おはぎ」と「コロッケ」。北海道では冬寒いためか(1)改札は発車15分前まで行われずホームには入れない。 (2)乗客はホームの階段で風を避けて列車を待つ、のが普通のようだ。この季節でもその習慣は変わらない。

釧路発0905快速「しれとこ」網走行き。ほぼ満席。カメラを抱えた女性の一人旅が目立つ。途中、今朝始発で出てきた標茶に停車。「最長片道の旅」三日目はここから始まる。

  右窓に斜里岳が見えてくる。形よい頂に雪をおき、
  裾を思い切り長くひいた休火山で、地図を出して
  山名を確認せずにはいられぬ山容である。
  (宮脇俊三「最長片道切符の旅」 新潮文庫)

地図を出して山名を確認した。なるほど、形がよいいい山だ。麓は見渡す限り牧場である。

  列車は湿地と海の間の低い砂丘の上を行く。波が
  荒く、幾段にも崩れている。砂に埋もれた流木や
  番小屋しか目に入らない茫漠としたところを急行列車
  は九十キロぐらいの快速でとばす。前方にウミネコの
  群がりが見えてくると小さな川が海に流れ込んで
  いて、家があり、ときに駅もある。そこを過ぎると
  また単調な眺めに戻る。
  (宮脇俊三「最長片道切符の旅」 新潮文庫)

車窓を流れる景色は25年前と変わらない。変わったのは急行がなくなって快速になったことだけである。止別(やむべつ)で降りて昼食に駅構内の食堂でラーメンを食べる。

次の列車まで時間があるので浜まで歩いてみる。やっぱりなんにもないただの浜であった。知床が見えた。

遙か右に知床半島

網走からはバス。今回の北海道でもっとも接続が難しかったのが、網走から名寄までの旧湧網線、名寄線の跡をたどるこのバス路線であった。バスの時刻表はネットでも出ておらず、交通新聞社の「道内時刻表」でようやく確認できた。結果的にはバスを三路線乗り継ぐことになった。バスの乗り継ぎは時間が不定期なのでいやなのだがしょうがない。しかしこれは杞憂でバスは鉄道並みに時間ぴったりで運行されていたのであった。

網走を出たバスは国道238号線を走る。その横をつかず離れず細いサイクリングロードが走っている。これが湧網線の跡である。細い。車道片道の半 分もない。細く長く続くその道はかれんである。バスは浜佐呂間から大きく山に入り以前の湧網線の路線通りに佐呂間を経由していく。佐呂間と計呂地には湧別 線駅跡が残っていた。明治期のよい形の駅舎である。バス停の名称がユニークだ。「片倉宅前」「福地宅前」「伊沢宅前」と「宅前」が続く。


鉄道は国を興すに当たっての産業の基盤であった。石炭、石油を運び、原料を運び、製品を運ぶ。米、野菜、木材を運んだ。道路は投資であった。それ は国民生活を豊かにした。道路建設には莫大な費用がかかる。鉄道を産業基盤として豊かになった日本は、欧米に負けないきれいで立派な道路網を作った。その 善し悪しは云わない。それは確かに人と物の流動性を高めた。それは日本の豊かな財産の一つであるといえるだろう。

中湧別バスセンターで紋別行きのバスを待つ。以前鉄道の駅だったところがバスセンターになっている。どこの町でも町中の中心に広くて立派なセン ターがある。これはすべて駅とヤードの跡なのであった。バスの接続は鉄道並みに時間通りでなんの問題もなかった。ただ、中湧別のバスセンター待合室で札幌 ファイターズの新庄が満塁大逆転ホームランを打ったニュースをおじさんや女学生と眺めていたら危うく次のバスに乗り遅れそうになるところであった。

北海道では今パークゴルフが全盛のようだ。ゲートボールはどこへ行ってしまったのか。遠紋地区では「いなか博」というのをやっていた。紋別から興部間でオホーツクの雄大で美しい夕焼けを見た。270度、海と原野と山の大きな夕焼けであった。

  6時02分着の興部でほとんどの客が降りる。なんと
  カラスの多いところだろう。五十羽ものカラスが駅の
  周辺で飛んだり止まったりしている。しかし、あの
  カアという声は全く発しない。朝のカラスは鳴かない
  のだろうか。
  (宮脇俊三「最長片道切符の旅」 新潮文庫)

興部(おこっぺ)に着いた。カラスは一羽もいなかった。宿はバスセンターの近くの洋食屋兼宿屋の「味来館」にした。泊まり客は道路工事の人たちら しかった。夕食は彼らの分だけで余分がないということで、近くの寿司屋を紹介してくれた。寿司屋で宿の紹介だというと「あの人はいい人だねえ」と感心して くれて、こちらもなんだかうれしくなった。お任せで食べた「イカの耳」と「ホタテ」がおいしかった。宿の亭主に寿司屋のお礼かたがたこのあたりの特産品を 聞くと「コックとしてここのベーコンはおすすめできる」というので、ベーコンとハムのセットを送ってもらうことにした。


 

 

2007年2月25日日曜日

【2日目】北見ー標茶(その2)

【2日目】池田ー標茶 2004.09.20(月)

北見 0716(北海道ちほく高原鉄道)1019 池田 1037(根室本線)1257 釧路 1309(根室本線)1442 厚床 1540(旧標津線・根室バス)1640 中標津 1646(旧標津線・阿寒バス)1810 標茶


1037池田から根室本線下り釧路方面に乗る。ここでもまた古いキハ40で、だいぶなじみが出てきた。列車は三両編成だが浦幌(うらほろ)で一両切り離し、二両となった。

  ここから釧路までの車窓は、変化に富む、
  という表現がぴったりくる。線路の方も
  曲線あり直線あり登りあり降りありで、(略)
  それらの間隔が長からず短からず、車窓風景も
  自分の出番を心得たように適度に出没して、(略)
  うまく演出してくれる。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三 新潮文庫)

十弗(とおふつ)の先で初めて鶴を見た。凛々しいものですね。それにしても「十弗」とはしゃれた駅名だな。駅には10ドル札の絵が描いてあった。なるほ ど、10+$か。上厚内(かみあつない)駅前に小さな小学校があった。廃校か。厚内(あつない)で海に出た。船員らしき男が鞄ひとつで降りていった。

  厚内からは淋しい太平洋に出、直別で湿原の中を
  行き、音別では左が湿原、右が海となる。とくに
  音別と白糠の間にある湿原には立ち枯れの大樹が
  点々とあって日光の戦場ヶ原よりもいいところ
  だが、根室本線はそこを無造作に通り抜けて行く。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三 新潮文庫)

直別(ちょくべつ)で列車すれ違いのため4分停車。トイレと自販機のためホームに出る。小さな駅舎を通り抜ける、と、なんにもなかった。トイレも、自販機も、駅前商店街もなにもない。コスモスだけが咲いていた。

音別(おんべつ)ー白糠(しらぬか)間には原文通りきれいな湿地があった。国道は厚顔にも湿原を真っ直ぐ突き抜けていくが、我が鉄路は湿原を律儀に大きく回って迂回していく。

釧路着1257。ここでお昼の弁当(「たらば寿し」¥1350)を買い込む。今や駅弁はケータイで事前に特注しておく時代になった、と駅弁売りの広告が言う。

1978年当時になかったものは何だろう。パソコンはまだ一般的でなかった。私が初めてパソコンを買ったのは1982年だった。CDもなかった。 カセットテープ全盛期である。ケータイもなかった。自動車携帯電話というバッテリーほどもある電話機があった。Jリーグも札幌ドームも札幌ファイターズも なかった。この年までライオンズはクラウンライターライオンズであった。鉄道にはワンマンカーもJRもなかった。日本はまだ国鉄の時代であった。

1309 釧路発根室行き、ここからは「花咲線」という名前になる。ディーゼルは1両編成。ほぼ満席である。前半分が後方後ろ向き、後ろ半分が進行方向向きの2席×2列の席、というややこしい座席配列である。

  釧路から二駅目の別保(べっぽ)あたりで丘陵地帯
  にさしかかる。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三 新潮文庫)

1988年、保と釧路の間に武佐(むさ)が開設したため、別保駅は釧路から三駅目である。武佐は釧路市内ではあるが小さい無人駅であった。

厚岸(あっけし)を出て「厚岸湖の北岸から細長い湿原へと分け入って行く」。きれいで大きな湿原であった。25年前も100年前も2000年前も 1万年前も同じ景色だっただろう、と思った。浜中(はまなか)の駅前は通りが一本延びているだけだった。その先、地平線が見えるかというほどの平原地が広がってい た。

1540 厚床(あっとこ)着。降りたのは風呂敷包み一つのおばあさんと私だけだった。プアンと列車が出ていってしまうと辺りは全くの静寂となった。おばあさんは迎えの軽自動車に乗って行ってしまった。やはり駅前には何もなかった。殺風景な広い道が一本どーんと通っているだけである。やっぱりここでは泊まれなかったなあ。宮脇版ではこの日、根室まで乗り越して翌朝一番の列車で厚床に帰ってきている。が、現代そんな始発列車はない。ここはやはりバスで先に行くしかなかっただろう。

念のため駅前のバス停で時刻表を確かめる。1時間後の中標津行きのバスは確かにある。1時間をここで過ごすことになった。初めて写真付きケータイメールをカミさんに出してみた。けっこうおもしろいわ、これ。ぶらぶら周辺を散歩していたらすてきなログハウスの喫茶店を見つけたのでここで一休み。近所の人たちでにぎわっていた。おいしいドリップコーヒーを飲んだ。

1540 厚床発、中標津(なかしべつ)行きのバスに乗車。他に客はいない。バスは淡々と原野の中のまっすぐな道を走る。

  これから人口密度が日本一すくなく1平方キロ
  あたり十四人という別海町を1時間あまり走る。
  根釧原野である。しかし、町と呼び原野と名付ける
  にはふさわしくないところで、最初の駅奥行臼までの
  11.5キロの間、私は注意して左右を見ていたが、
  緩い起伏のつづく丘陵に白樺やナラらしい木が茂り、
  時に湿地帯を行くばかりで人家は一軒も目に入らず、
  サイロも見えなかった。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三 新潮文庫)

それでも途中からぼちぼち高校生が乗ってきた。この辺りは自由乗降区間である。原野の中の牧場入り口でジャージ姿の女子高生が降りていった。降り際に「ありがとうございました」ときちんとお辞儀をしていった。えらいものだ。

  この臨時乗降場の左手に小さな牧舎とサイロが
  三つ四つ見え、他に何もないから牧場の子に違い
  ない。とすると、ウチでは牛の世話もしているの
  だろうし、もしかするとゴム手袋などはめて牝牛の
  種付けの手伝いなんぞもやっているかもしれない。
  とてもそんなふうには見えないが。(P76)

と、先生は意外に古いことをおっしゃる。この女の子を見せたら、先生なんとおっしゃるだろうか。

1640 中標津バスステーション到着、接続よく1646標茶(しべちゃ)行きが出る。運転手はきれいな女の人である。バスはいかにもアメリカの田舎に出てきそうなアー リーアメリカンな道を走る。ぐるぐると牧場を回っているようだ。阿寒に夕日が落ちてくる。何にもない原野の道の途中、夕暮れの中を女子学生が一人降りてすたすたとまっすぐな道を歩いていった。見渡す限り家らしいものはなにも見えなかった。

西春別(にししゅんべつ)で高校生カップルが飛び乗ってきた。が、どうやら反対方向のバスに乗ってしまったらしい。次のバス停で降りてすれ違ったバスを追いかけて走っていった。バスの(きれいな)運転手さんが無線で対向バスに「ちょっと待っててやってね」と声をかけていた。

1840 真っ暗な標茶駅に到着。乗ってきたバスはこれから引き返して海側の標津まで帰るそうだ。着くのは20時半を過ぎるという。ご苦労様です。あんな何にもない真っ暗なところを女の人一人で運転していくのも大変だろうな。

宿は駅前の「池田旅館」。素泊まり4000円。工事の人たちでけっこう一杯である。宿に教えてもらった焼き肉屋に行く。メニューに
マトンがあるのが北海道らしい。

【2日目】北見ー標茶(その1)

【2日目】北見ー池田 2004.09.20(月)

北見(北海道ちほく高原鉄道)池田(根室本線)釧路(根室本線)厚床(旧標津線・根室バス)中標津(旧標津線・阿寒バス)標茶
北海道路線図

困ったことがある。本日の宿泊地が決まっていないのだ。頭痛の種は「厚床」(あっとこ)。響きはいい駅名なのだがここがネックになっている。ボトルネックともクリティカルパスともいう困ったちゃんである。厚床は旧標津線が出ていたところで、厚床ー中標津ー標茶間は廃線跡をバスで辿ることになる。が、このバスの本数が少ないのと中標津での接続がよくない。というのも各々の路線バス会社が違うんですね。ま、解らなくはない。厚床は根室圏だし、中標津からだと釧路に出る方が近いだろう。だが、元は同じ鉄道路線でしょ、といいたい。いいたいが、どうしようもない。

厚床(「青春18切符」のポスター2000夏)

かろうじて接続するバスは厚床を早朝0625発。これだと中標津5分待ちで次のバスに接続する。そうするとその先の網走、紋別方面のバスも接続がよい。ただこの場合、翌日の稚内方面へのバス接続がよくない。うーん、四面楚歌だ。始発のバスに乗るためには厚床に泊まらなければならないのだ。

昨晩、北見のホテルからあちこちに電話をして聞きまくったのだが、どうも厚床(及びその周辺)には泊まれるところはないようだ。出てくる前もインターネットでさんざん探したのだが宿泊先は出てこなかった。ホテルの只インターネットでもサーチしたけど出てこない。厚床に近い浜中駅前のタクシー会社に電話してみたら親切なおばちゃんが出てきて「根室に泊まってそっからタクシーで行くだね。7千円もあれば行くんでないかい」、と。うーん、それもなあと、結局結論出ず。

今夜どこに泊まるかの結論が出ないまま、ホテルサービスの朝食おにぎりを食べ(昨夜の「スーパーセールスマン」は四個食べた上、お昼用を包んで行った)、北見発0716「ふるさと銀河鉄道」(北海道ちほく高原鉄道)に乗る。
朝6時の気温、8度。晴れ。(東京は30度近くあったなあ) 銀河鉄道は旧池北線、北見ー池田間140km、3時間で¥3410である。沿線の玉ねぎ畑は収穫が終わって鉄枠に詰めて黄色、青色のビニールをかぶせてある。現代彫刻みたいだ。
峠はようやく黄葉が始まったところだった。

  かつて野付牛(のつけうし)といったこの北見一帯は、
  北海道としては気候と地味に恵まれたところで、米、小麦、
  ジャガイモ、甜菜(ビート)その他いろいろできる。
  特にハッカの生産は有名だ。

  五十分ほど走って盆地が尽きると置戸(おけと)に着く。
  (略)あたりは雑木林で紅葉は美しさを残しているが大木は
  見当たらない。貯木場で見かけたのは奥から伐り出された
  ものであろう。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三)

私は宮脇氏ほど植物、木、作物の名前に詳しくない。その代わりマーケティングに関してはよく解るんだがなあ。それは育ってきた素養の差なんだろうか。時代の差なんだろうか。木が好きで娘に木の名前を付けている私だって、木の名前なんてろくに知らない。知らないし見分けもつかない。もっとも先生だって木の名前には苦労しているようだけど。

  私は植物図鑑を持ってくればよかった、と後悔した。
  来るたびにそう思うのだが、いつも忘れる。北海道を
  十回も旅行しているのに、いまだにエゾマツとトドマツの
  区別もつかない。教わってもすぐ忘れてしまうのである。
  私はどこかの途中下車駅で植物図鑑を買おうと思った。

  10時01分、帯広着。五十分ほどあるので、さっそく駅に近い
  本屋に行った。いくつかの植物図鑑があったので手にとって
  みたが、草花の絵や生理の図解ばかりが載っていて、
  木の名前を知るのに都合がよいのはなかった。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三)

途中、電車の中ではっと気がついた。明日の朝の厚床(あっとこ)始発バスにこだわるから話がややこしくなる。今日このままずっと鉄道、バスに乗り継いでいけばどこまで行けるんだろ。早速時刻表をめくる。そうすると、厚床で1時間ほど待つとバス接続があることを発見した。そのまま中標津で乗り換えると釧網(せんもう)本線の標茶(しべちゃ)まで行けることが解った。おお、標茶に泊まると翌日の網走、紋別方面のバス接続もうまくいくではないか。しかも釧路湿原まで行って来られるおまけも付く。ユーレカッ、という気分だったね、これは。早速ケータイで標茶駅前の今夜の宿を予約する。

途中、ラリーWカップが開催された陸別(りくべつ)で5分の停車。駅の売店でパンと牛乳を買ってホームのベンチでぼーっと食べていたら、突然ピーッと列車が発車。中にいたおばさんが運転手に声をかけてくれて列車を停めてくれた。危なかったあ。

この「ちほく高原鉄道」は車両のシートもいいし、景色はぬるいし、ぼんやり乗っているにはいいんだけど、私のようになつかしさだけで乗りに来るようになると、往年の歌手の「ベスト盤」みたいなもんで、未来はないんじゃないかと思ってしまう。そのせいか、沿線の農作業中のおじいさんや子供達、踏切の夫婦連れが列車に手を振るんだよな。村で鉄道存続運動かなんかやっていて「帽振れ」運動でもやっているのかな。(その後、ちほく高原鉄道は2006年4月、廃線となった)
しかし先生の『最長片道切符の旅』からの約25年は、鉄道路線廃止の四半世紀でもあったのだ。それはコンピュータの歴史とも重なってくる。創始期のコンピュータは大型でビルそのものがコンピュータであった。そのため大規模な設備投資、建設費、ランニングコストが必要だった。これはそのまま鉄道にも当てはまる。コンピュータは次第に小型化され「パーソナルコンピュータ」と呼ばれまずはデスクトップ型として普及した。これは鉄道からバス、自家用車の流れと重なる。そして現代、パソコンはブック型となり自由に持ち運ぶことができるようになった。またネットワーク化で自由に世界中と繋がるようになった。車もまた小型化、安価、そして日本中に張り巡らされた高速道路で自由に往来できるようになった。もはや大型の設備投資を必要する鉄道/メインフレームからマイカー/パソコンの時代になったのだった。それがこの25年の時代の流れでもあったのだね。ふと外を見ると親子連れが乗った軽自動車がすーっと我々の列車を追い抜いて行った。

途中、足寄(あしょろ)駅には「足型工房」があった。ここで足型を取って駅前や歩道に敷設してくれるらしい。沿線には「ありがとう自衛隊」の看板が。畑ではハロウィン用のカボチャが栽培されていた。これも時代か。

1019池田到着。全員帯広行きの上り列車に乗り換えた。下り列車は私ともう一人の二人だけだった。帯広行き列車にはきれいで知的な西洋人が乗っていた。まるで「大草原のローラ」のお母さんのような人だった。北の国は外国人も種類が違うようだ、と思った。

(つづく)
 

2007年2月24日土曜日

【1日目】広尾ー北見

路線図:北海道
【1日目】広尾ー北見 2004.09.19(日)

広尾(旧広尾線)(バス)帯広(根室本線)富良野(富良野線)旭川(石北本線)北見

「最長片道切符の旅」はここ、広尾線広尾から始まる。広尾線は昭和62年(1987)に廃止され、今は駅舎だけが残っている。駅の裏は閑散としていて昔ヤードだったところは鉄道公園とパークゴルフ場になっていた。旧広尾駅はバスステーションになっていて「さようなら広尾線」展示コーナーになっている。
雨、気温15℃。広尾から旧広尾線の跡を辿って帯広までバスで、¥1830。0623発の始発は私一人だけだった。
バスは雨の中、真っ直ぐな道を単調に走り続ける。バスの運転手「ま、お客さんひとりしか乗っとらんですから」。ぼちぼち話をする。旧広尾線の跡があると丁寧に教えてくれた。旧忠類駅では時間調整のため3分間停車して、写真を撮りに行かせてくれた。忠類駅は昔のまま、ぽちんとレールと貨車ごと残っていた。妙に懐かしい。昔の駅は今ではバスターミナルになったり道の駅になったりしている。木々の間に「幸福」駅のディーゼル2両がちらっと見えた。
町や林の中を線路の跡が一直線に抜けている。ちょっと胸がきゅんとする。「さよなら広尾線」などとセンチなことを言うつもりはない。馬車が鉄道に、鉄道がバスに、バスが自家用車に。それは鉄道が経済的にマーケットから見放され、経営が成り立たなくなったということである。鉄道を駆逐したバスも今、存亡の危機を迎えている、と北海道バス連合のチラシが訴えている。広尾の町の人は誰もが誇らしげに札幌への急行バスのことを話していた。今でも鉄道とバスと自動車は移動の主権を争っている。

広尾線廃線の危機のとき、「愛国から幸福」行きの切符が爆発的に売れたことがある。結婚式の引き出物として使われたのだった。鉄道は最初、石炭や農作物を運ぶ「運搬」としてスタートし、その後人を運ぶという「サービス」業になり、そして何も運ばない「愛国から幸福」という情報だけを売る「情報」業になった。それは80年代のマーケティングの変化をそのまま体現しているようだ。「製品」でもなく「サービス」でもなく「情報」が売れる時代になったのだ。そしてそれが鉄道・広尾線の最後でもあった。

バスは雨の中を日曜のクラブ活動に登校する高校生をぽちぽち拾いながら走る。バスの行き先案内の「聞きまつがい」が愉快だ。「野塚御殿」は「野塚五線」であり、「更別南十字星」は「更別南十二線」であった。看板「愛国メイクイーン祭9月23日」「FM JAGA 77.8M」。畑はジャガイモ、豆、ビート(グラニュー糖が出来るんだそうだ)。「新生」「大樹」「幸福」「大正」「愛国」を過ぎて帯広市街に入る。
0830帯広駅着。

朝食「豚にぎり」¥400。0920帯広発根室本線快速「狩勝」。1両編成ワンマンカー。ほぼ満席。7割は鉄分多し。シルバーエイジも多い。車両は「キハ40」。窓の位置が高くてシートが固い。前席カップルの女の子は乗ってからずっとウォークマン、ケータイメール、ガイドブックチェック、文庫本とメディアリテラシー高し。男はずっと馬鹿面でGBA。

鉄道の席は「進行方向前向きで左側」をもって最良とする。景色がよく見えるのと左側の鉄道標識、里程、トンネル・鉄橋・河川名がよく読めるからである。今回もしっかり最善の席を確保した。



芽室(めむろ)で雲が晴れて山々が姿を現す。新得(しんとく)から大きなループで狩勝峠へ。ダイナミックな鉄道風景。この風景は25年前と変わらない。左側に「新狩勝隧道」の標識が見えた、と思ったらそのまま長いトンネルへ。トンネルを抜けると落合、石狩に入る。

富良野の手前、布部(ぬのべ)から山の奥に入っていく暗くて細い一本道が見えた。ここを山の中に入っていくと麓郷(ろくごう)、「北の国から」のロケ地である。

富良野駅では反対側ホームにSL「ノロッコ号」がC11に牽引されて入ってきた。C11は子どもの頃からいちばん好きだった蒸気機関車なので幼友達に出会ったように嬉しい。ノロッコ号には家族連れや鉄道マニアが半々。これはもう立派な産業だな。
晴れてきた。汗ばむほどの陽気になってきた。1145富良野線で旭川まで。車内が蒸し暑くなってきて、美馬牛(びばうし)(なんと美しい駅の名前だろう)で冷房が入った。しかし、踏切で待っている自転車の少女はフリースを着ている。
旭川1255着。次の列車まで44分の待ち合わせ時間がある。この間を利用して旭川市内にラーメンを食べに行くべきか、駅舎内の駅弁ですますか、それが問題だ。駅近くにラーメン屋があるのを地図で確認、ラーメンに賭ける。らうめん「青葉」に大急ぎで駆けつけると10人ほどの列。しまったと思ったがしようがない。並ぶこと10分、意外に早く順番が回ってきた。塩ラーメン700円。ほっこりとしたいい味だった。大汗を掻いて駅に戻ると出発1分前。やれやれ。

伊香牛(いかうし)で今年初めての赤蜻蛉を見る。中愛別(なかあいべつ)で私服の中学生の女の子三人が黙って降りていった。周りは畑ばかりで家らしいものは遠くに見えるだけだった。
  上川盆地を東に進むに連れて水田が雪景色に変わってきた。
  このあたりは北海道第一の米作地帯で、それだけに減反の
  効果が大きいのか休耕地が目立つ。今年の収穫が終わった
  ところは雪面に切株が整然と並んでいるが、うぶ毛のよう
  な雑草が一面に生えた休耕地は餅に青カビが生えたように
  なっている。二割ぐらいが休耕地のようであった。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三)

昨夜の居酒屋「みはる」の女将に言わせると「旭川米は今一番おいしいんでないの。去年はよくなかったけど、今年は暑かったからいいんでないかい」。25年前休耕田だったところは、今は自主流通米になって出回っているのだろう。

上川に1453着。ここで57分の待ち合わせ。上川駅直前、汽車の中から「虹の湯」というのが見えた。駅の売店のおばさんに聞いてみたらすぐ電話してくれた。残念ながら16時からだという。駅前のタクシーにも近場の温泉を聞いてくれたけど適当なところはなし。1時間では層雲峡までは行って帰ってこられないしな。ここで過ごすことになった。じゃ、コーヒーでも飲むかと町に出たけど店は全て閉まっていた。(というか店がない)一軒だけ開いていたケーキ屋でケーキを買って駅のおばさんと食べた。


駅前にバスが一台止まるとジャージー姿の高校生がどっと降りてきた。駅のおばさん「あ、もう帰ってきたんだ。ウチの孫も帰ってきたな。二、三日静かでよかったんだけどな」

上川から特別快速「きたみ」。キハ52系。窓が木枠で二重になっていてしかも開く。列車は留辺蘂川に沿って山を登る。消えかかった駅標が「かみこし」(上越)と読める信号所で、上り線待ち合わせ4分停車。「石狩北見国境標高六三四米」とある。

列車は北見峠へ。ちらほらと紅葉。すぐに北見トンネルへ。夕焼けで山が赤い。遠軽駅の神社では秋祭りの最中であった。ここから進行方向が変わる。「宮脇版」では第一日目はこの遠軽に泊まるのだが、私はもう少し先の北見まで行く。北見まで行かないと翌朝のちほく高原鉄道(池北線)始発に乗れないのだ。
北見富士に夕日が落ちる。窓を開けるとおが屑の匂いが入ってきた。
生田原(いくたはる)。ここはNHKTV版「最長片道」の二日目で放送された駅。ようやくここでクロスした。この先何回行き交うのだろうか。相内(あいのない)という駅があった。
北見駅前の「東横イン」に泊まる。ここも携帯のネットで予約。夕食は隣のミスドでドーナッツ。ホテルのコインランドリーで三日分の洗濯。隣で洗濯しているスーパーセールスマンはすごかった。着ているものを背広、シャツ、ズボン、パンツ、靴下、ネクタイまで全部洗濯機に入れて、自分はホテルの寝間着とスリッパで待っているのである。強者がいたものだ。

【0日目】函館ー広尾

【0日目】函館ー広尾 04.09.18(土)
朝6時、気温18℃。昨夜は雨が降ったようだ。0720「スーパー北斗」自由席は満席で立ち客も。20分前から並んでようやく席を確保。キオスクで朝食の珈琲牛乳とパンを。

霧で駒ヶ岳見えず。洞爺で寝台の予約を取れなかった「北斗星」を追い抜くが、ちょっと悔しい。実は私、登別生まれなのだが、生後三ヶ月で内地に越してきてしまったので生地の記憶は全くない。初めて生誕地を通過。

苫小牧0949着。今夜の宿を電話で予約。「祝駒大苫小牧優勝」(夏期甲子園)の看板が今も。もはや、なつかしい。日高本線、苫小牧1029発。二両編成。「この先、駅弁売ってるとこありますかね」「ない、なーんもない」。ということなので苫小牧駅で駅弁「チップ姿寿司」(チップ:本マス)。席はほぼ満員。雪駄履きのやーさんが隣の席の4,5歳の兄弟と仲良くなっている。
鵡川(むかわ)で上り線信号故障のため20分停車。1115発の静内行きのバス有り。早合点のおじさんがこのバスに飛び乗ったとたん、列車が発車。おじさん恨めしそうにバスから見送る。

静内で14分停車の予定だったので遅れを難なくカバー。そういえばこの列車、中吊り、額面が全くない。静かな海を眺めながら淡々と走る。お約束の日高の牧場が現れる。絵笛(えふえ)の駅前がもう牧場。

様似(さまに)1339着。1400発のバスで襟裳岬を経て広尾へ。途中、アポイ山荘経由。日高昆布取りの美女がいた。なぜこんなに美しい人がここで昆布取りを。バスはばあさんばかりが乗り降りする。バスの窓にも昆布の匂い。

広尾1556着。バスから見たら今夜予約したホテルがしょぼかったので、タクシー運転手推薦ホテル「東陽館」へ。昭和53年版時刻表にもこのホテルが出ていた。夕食はタクシー、ホテルの両方が絶賛推薦する居酒屋「みはる」へ。ルイベ、昆布盛(こんぶもり)(納沙布岬に近い牡蠣の産地)の岩牡蠣、秋刀魚の刺身、豆牡丹海老の塩焼き、海鮮雑炊。¥4000

「みはる」の板さんと女将の話。「今日、十勝港(広尾に新しくできた港)から客船「飛鳥」が東京、花博に向けて出航した。税金は全部港と工事中の漁業補償につぎ込むから、学校はぼろぼろだ」「札幌行きの特急バスが出来た。4時間で¥4800だ」「今年は暑くて三日ぐらい(!)寝られなかった」「水温が2℃くらい高くて捕れる魚が全く違う」店を出ると濃霧で港はかすんでいた。霧笛が滲んで聞こえる。

いよいよ明日の朝から「最長片道切符の旅」、広尾から枕崎に向けて出発だ。

自己紹介

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「乗り鉄」です。始発からずっと乗りっぱなし。泊まりはたいてい駅前のビジネスホテル。泊まったところでおいしいものを見つけるのが楽しみ。 路地裏旅行社 http://www.kanshin.jp/rojiura/