2007年2月25日日曜日

【2日目】北見ー標茶(その2)

【2日目】池田ー標茶 2004.09.20(月)

北見 0716(北海道ちほく高原鉄道)1019 池田 1037(根室本線)1257 釧路 1309(根室本線)1442 厚床 1540(旧標津線・根室バス)1640 中標津 1646(旧標津線・阿寒バス)1810 標茶


1037池田から根室本線下り釧路方面に乗る。ここでもまた古いキハ40で、だいぶなじみが出てきた。列車は三両編成だが浦幌(うらほろ)で一両切り離し、二両となった。

  ここから釧路までの車窓は、変化に富む、
  という表現がぴったりくる。線路の方も
  曲線あり直線あり登りあり降りありで、(略)
  それらの間隔が長からず短からず、車窓風景も
  自分の出番を心得たように適度に出没して、(略)
  うまく演出してくれる。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三 新潮文庫)

十弗(とおふつ)の先で初めて鶴を見た。凛々しいものですね。それにしても「十弗」とはしゃれた駅名だな。駅には10ドル札の絵が描いてあった。なるほ ど、10+$か。上厚内(かみあつない)駅前に小さな小学校があった。廃校か。厚内(あつない)で海に出た。船員らしき男が鞄ひとつで降りていった。

  厚内からは淋しい太平洋に出、直別で湿原の中を
  行き、音別では左が湿原、右が海となる。とくに
  音別と白糠の間にある湿原には立ち枯れの大樹が
  点々とあって日光の戦場ヶ原よりもいいところ
  だが、根室本線はそこを無造作に通り抜けて行く。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三 新潮文庫)

直別(ちょくべつ)で列車すれ違いのため4分停車。トイレと自販機のためホームに出る。小さな駅舎を通り抜ける、と、なんにもなかった。トイレも、自販機も、駅前商店街もなにもない。コスモスだけが咲いていた。

音別(おんべつ)ー白糠(しらぬか)間には原文通りきれいな湿地があった。国道は厚顔にも湿原を真っ直ぐ突き抜けていくが、我が鉄路は湿原を律儀に大きく回って迂回していく。

釧路着1257。ここでお昼の弁当(「たらば寿し」¥1350)を買い込む。今や駅弁はケータイで事前に特注しておく時代になった、と駅弁売りの広告が言う。

1978年当時になかったものは何だろう。パソコンはまだ一般的でなかった。私が初めてパソコンを買ったのは1982年だった。CDもなかった。 カセットテープ全盛期である。ケータイもなかった。自動車携帯電話というバッテリーほどもある電話機があった。Jリーグも札幌ドームも札幌ファイターズも なかった。この年までライオンズはクラウンライターライオンズであった。鉄道にはワンマンカーもJRもなかった。日本はまだ国鉄の時代であった。

1309 釧路発根室行き、ここからは「花咲線」という名前になる。ディーゼルは1両編成。ほぼ満席である。前半分が後方後ろ向き、後ろ半分が進行方向向きの2席×2列の席、というややこしい座席配列である。

  釧路から二駅目の別保(べっぽ)あたりで丘陵地帯
  にさしかかる。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三 新潮文庫)

1988年、保と釧路の間に武佐(むさ)が開設したため、別保駅は釧路から三駅目である。武佐は釧路市内ではあるが小さい無人駅であった。

厚岸(あっけし)を出て「厚岸湖の北岸から細長い湿原へと分け入って行く」。きれいで大きな湿原であった。25年前も100年前も2000年前も 1万年前も同じ景色だっただろう、と思った。浜中(はまなか)の駅前は通りが一本延びているだけだった。その先、地平線が見えるかというほどの平原地が広がってい た。

1540 厚床(あっとこ)着。降りたのは風呂敷包み一つのおばあさんと私だけだった。プアンと列車が出ていってしまうと辺りは全くの静寂となった。おばあさんは迎えの軽自動車に乗って行ってしまった。やはり駅前には何もなかった。殺風景な広い道が一本どーんと通っているだけである。やっぱりここでは泊まれなかったなあ。宮脇版ではこの日、根室まで乗り越して翌朝一番の列車で厚床に帰ってきている。が、現代そんな始発列車はない。ここはやはりバスで先に行くしかなかっただろう。

念のため駅前のバス停で時刻表を確かめる。1時間後の中標津行きのバスは確かにある。1時間をここで過ごすことになった。初めて写真付きケータイメールをカミさんに出してみた。けっこうおもしろいわ、これ。ぶらぶら周辺を散歩していたらすてきなログハウスの喫茶店を見つけたのでここで一休み。近所の人たちでにぎわっていた。おいしいドリップコーヒーを飲んだ。

1540 厚床発、中標津(なかしべつ)行きのバスに乗車。他に客はいない。バスは淡々と原野の中のまっすぐな道を走る。

  これから人口密度が日本一すくなく1平方キロ
  あたり十四人という別海町を1時間あまり走る。
  根釧原野である。しかし、町と呼び原野と名付ける
  にはふさわしくないところで、最初の駅奥行臼までの
  11.5キロの間、私は注意して左右を見ていたが、
  緩い起伏のつづく丘陵に白樺やナラらしい木が茂り、
  時に湿地帯を行くばかりで人家は一軒も目に入らず、
  サイロも見えなかった。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三 新潮文庫)

それでも途中からぼちぼち高校生が乗ってきた。この辺りは自由乗降区間である。原野の中の牧場入り口でジャージ姿の女子高生が降りていった。降り際に「ありがとうございました」ときちんとお辞儀をしていった。えらいものだ。

  この臨時乗降場の左手に小さな牧舎とサイロが
  三つ四つ見え、他に何もないから牧場の子に違い
  ない。とすると、ウチでは牛の世話もしているの
  だろうし、もしかするとゴム手袋などはめて牝牛の
  種付けの手伝いなんぞもやっているかもしれない。
  とてもそんなふうには見えないが。(P76)

と、先生は意外に古いことをおっしゃる。この女の子を見せたら、先生なんとおっしゃるだろうか。

1640 中標津バスステーション到着、接続よく1646標茶(しべちゃ)行きが出る。運転手はきれいな女の人である。バスはいかにもアメリカの田舎に出てきそうなアー リーアメリカンな道を走る。ぐるぐると牧場を回っているようだ。阿寒に夕日が落ちてくる。何にもない原野の道の途中、夕暮れの中を女子学生が一人降りてすたすたとまっすぐな道を歩いていった。見渡す限り家らしいものはなにも見えなかった。

西春別(にししゅんべつ)で高校生カップルが飛び乗ってきた。が、どうやら反対方向のバスに乗ってしまったらしい。次のバス停で降りてすれ違ったバスを追いかけて走っていった。バスの(きれいな)運転手さんが無線で対向バスに「ちょっと待っててやってね」と声をかけていた。

1840 真っ暗な標茶駅に到着。乗ってきたバスはこれから引き返して海側の標津まで帰るそうだ。着くのは20時半を過ぎるという。ご苦労様です。あんな何にもない真っ暗なところを女の人一人で運転していくのも大変だろうな。

宿は駅前の「池田旅館」。素泊まり4000円。工事の人たちでけっこう一杯である。宿に教えてもらった焼き肉屋に行く。メニューに
マトンがあるのが北海道らしい。

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「乗り鉄」です。始発からずっと乗りっぱなし。泊まりはたいてい駅前のビジネスホテル。泊まったところでおいしいものを見つけるのが楽しみ。 路地裏旅行社 http://www.kanshin.jp/rojiura/