2007年2月25日日曜日

【2日目】北見ー標茶(その1)

【2日目】北見ー池田 2004.09.20(月)

北見(北海道ちほく高原鉄道)池田(根室本線)釧路(根室本線)厚床(旧標津線・根室バス)中標津(旧標津線・阿寒バス)標茶
北海道路線図

困ったことがある。本日の宿泊地が決まっていないのだ。頭痛の種は「厚床」(あっとこ)。響きはいい駅名なのだがここがネックになっている。ボトルネックともクリティカルパスともいう困ったちゃんである。厚床は旧標津線が出ていたところで、厚床ー中標津ー標茶間は廃線跡をバスで辿ることになる。が、このバスの本数が少ないのと中標津での接続がよくない。というのも各々の路線バス会社が違うんですね。ま、解らなくはない。厚床は根室圏だし、中標津からだと釧路に出る方が近いだろう。だが、元は同じ鉄道路線でしょ、といいたい。いいたいが、どうしようもない。

厚床(「青春18切符」のポスター2000夏)

かろうじて接続するバスは厚床を早朝0625発。これだと中標津5分待ちで次のバスに接続する。そうするとその先の網走、紋別方面のバスも接続がよい。ただこの場合、翌日の稚内方面へのバス接続がよくない。うーん、四面楚歌だ。始発のバスに乗るためには厚床に泊まらなければならないのだ。

昨晩、北見のホテルからあちこちに電話をして聞きまくったのだが、どうも厚床(及びその周辺)には泊まれるところはないようだ。出てくる前もインターネットでさんざん探したのだが宿泊先は出てこなかった。ホテルの只インターネットでもサーチしたけど出てこない。厚床に近い浜中駅前のタクシー会社に電話してみたら親切なおばちゃんが出てきて「根室に泊まってそっからタクシーで行くだね。7千円もあれば行くんでないかい」、と。うーん、それもなあと、結局結論出ず。

今夜どこに泊まるかの結論が出ないまま、ホテルサービスの朝食おにぎりを食べ(昨夜の「スーパーセールスマン」は四個食べた上、お昼用を包んで行った)、北見発0716「ふるさと銀河鉄道」(北海道ちほく高原鉄道)に乗る。
朝6時の気温、8度。晴れ。(東京は30度近くあったなあ) 銀河鉄道は旧池北線、北見ー池田間140km、3時間で¥3410である。沿線の玉ねぎ畑は収穫が終わって鉄枠に詰めて黄色、青色のビニールをかぶせてある。現代彫刻みたいだ。
峠はようやく黄葉が始まったところだった。

  かつて野付牛(のつけうし)といったこの北見一帯は、
  北海道としては気候と地味に恵まれたところで、米、小麦、
  ジャガイモ、甜菜(ビート)その他いろいろできる。
  特にハッカの生産は有名だ。

  五十分ほど走って盆地が尽きると置戸(おけと)に着く。
  (略)あたりは雑木林で紅葉は美しさを残しているが大木は
  見当たらない。貯木場で見かけたのは奥から伐り出された
  ものであろう。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三)

私は宮脇氏ほど植物、木、作物の名前に詳しくない。その代わりマーケティングに関してはよく解るんだがなあ。それは育ってきた素養の差なんだろうか。時代の差なんだろうか。木が好きで娘に木の名前を付けている私だって、木の名前なんてろくに知らない。知らないし見分けもつかない。もっとも先生だって木の名前には苦労しているようだけど。

  私は植物図鑑を持ってくればよかった、と後悔した。
  来るたびにそう思うのだが、いつも忘れる。北海道を
  十回も旅行しているのに、いまだにエゾマツとトドマツの
  区別もつかない。教わってもすぐ忘れてしまうのである。
  私はどこかの途中下車駅で植物図鑑を買おうと思った。

  10時01分、帯広着。五十分ほどあるので、さっそく駅に近い
  本屋に行った。いくつかの植物図鑑があったので手にとって
  みたが、草花の絵や生理の図解ばかりが載っていて、
  木の名前を知るのに都合がよいのはなかった。
  (『最長片道切符の旅』宮脇俊三)

途中、電車の中ではっと気がついた。明日の朝の厚床(あっとこ)始発バスにこだわるから話がややこしくなる。今日このままずっと鉄道、バスに乗り継いでいけばどこまで行けるんだろ。早速時刻表をめくる。そうすると、厚床で1時間ほど待つとバス接続があることを発見した。そのまま中標津で乗り換えると釧網(せんもう)本線の標茶(しべちゃ)まで行けることが解った。おお、標茶に泊まると翌日の網走、紋別方面のバス接続もうまくいくではないか。しかも釧路湿原まで行って来られるおまけも付く。ユーレカッ、という気分だったね、これは。早速ケータイで標茶駅前の今夜の宿を予約する。

途中、ラリーWカップが開催された陸別(りくべつ)で5分の停車。駅の売店でパンと牛乳を買ってホームのベンチでぼーっと食べていたら、突然ピーッと列車が発車。中にいたおばさんが運転手に声をかけてくれて列車を停めてくれた。危なかったあ。

この「ちほく高原鉄道」は車両のシートもいいし、景色はぬるいし、ぼんやり乗っているにはいいんだけど、私のようになつかしさだけで乗りに来るようになると、往年の歌手の「ベスト盤」みたいなもんで、未来はないんじゃないかと思ってしまう。そのせいか、沿線の農作業中のおじいさんや子供達、踏切の夫婦連れが列車に手を振るんだよな。村で鉄道存続運動かなんかやっていて「帽振れ」運動でもやっているのかな。(その後、ちほく高原鉄道は2006年4月、廃線となった)
しかし先生の『最長片道切符の旅』からの約25年は、鉄道路線廃止の四半世紀でもあったのだ。それはコンピュータの歴史とも重なってくる。創始期のコンピュータは大型でビルそのものがコンピュータであった。そのため大規模な設備投資、建設費、ランニングコストが必要だった。これはそのまま鉄道にも当てはまる。コンピュータは次第に小型化され「パーソナルコンピュータ」と呼ばれまずはデスクトップ型として普及した。これは鉄道からバス、自家用車の流れと重なる。そして現代、パソコンはブック型となり自由に持ち運ぶことができるようになった。またネットワーク化で自由に世界中と繋がるようになった。車もまた小型化、安価、そして日本中に張り巡らされた高速道路で自由に往来できるようになった。もはや大型の設備投資を必要する鉄道/メインフレームからマイカー/パソコンの時代になったのだった。それがこの25年の時代の流れでもあったのだね。ふと外を見ると親子連れが乗った軽自動車がすーっと我々の列車を追い抜いて行った。

途中、足寄(あしょろ)駅には「足型工房」があった。ここで足型を取って駅前や歩道に敷設してくれるらしい。沿線には「ありがとう自衛隊」の看板が。畑ではハロウィン用のカボチャが栽培されていた。これも時代か。

1019池田到着。全員帯広行きの上り列車に乗り換えた。下り列車は私ともう一人の二人だけだった。帯広行き列車にはきれいで知的な西洋人が乗っていた。まるで「大草原のローラ」のお母さんのような人だった。北の国は外国人も種類が違うようだ、と思った。

(つづく)
 

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「乗り鉄」です。始発からずっと乗りっぱなし。泊まりはたいてい駅前のビジネスホテル。泊まったところでおいしいものを見つけるのが楽しみ。 路地裏旅行社 http://www.kanshin.jp/rojiura/